検定が出来るまでの30年 Vol.2

検定が出来るまでの30Vol.2

内閣府認可財団法人認定 ウエディングプランナー資格

私は、昭和34年4月にこの世に生を受けた。生まれた場所は、北海道の夕張市、破綻限界集落と夕張メロンで有名な場所である。夕張市は、もともと炭鉱の町であり、とっても活気ある時代もあったが、閉山後は見る影もなく、かつて栄えた場所が寂れたときの風景は、とてもやりきれないほど空しく、涙が湧き出るような寂しさを感じさせる。私は4歳のころ、今の北海道の自宅のある登別市の隣の室蘭市に引っ越してきた。

私は、10歳のころに今の自宅の登別に引っ越したが、田舎ながらも道南では、函館ほどではないが、比較的活気のある場所であり、自宅の目の前にはイーオンがあり、ファストフードやファミレスなど東京にあるものはほとんどあり、非常に便利なところになった。

しかし、私が引っ越した10歳ころは、湿地の原野の中に、ところどころに家がある程度で、とても現在の姿を想像することはできなかった。

私の実家は、鉄工場を営んでおり、今は兄貴の代になったが、長男、次男がそれぞれ、日本製鋼所と新日本製鐵の下請けをしており、私が子供のころから家にはクレーン付きトラックなどの重機があって、私はそんな重機のとりこになっており、今だから明かせるが、小学校5年生からクレーン付きトラックの4t車を運転していた。私の当時の友達は、実家がアスファルト運搬専門の会社を営んでおり、そいつは5年生にして、なんと11tのトラックを運転していた。北海道ならではののどかな大自然の風景を想像すると思うが、私の家の前は、当時北海道で最も交通量が多い室蘭―札幌をつなぐ、国道36号線で、別名棺桶国道といわれたほど事故の多い道路であった。

こんな話をすると、私のような少年が北海道にたくさんいるかと思いきや、恐らく私と私の友人くらいだったと思う。

私は、犬に例えると放し飼いと言われる状態で、首輪をつけられるとどんなことをしても、その首輪を外すような子供であった。私の両親も呆れてか、匙を投げたか、怒られたことはほとんどなく、小学校6年生の時には、当時の高級車のクラウンが納品され、私の父も自慢げに楽しそうに見ていたが、その2時間後に、自宅の門柱にぶつけ、ドアを1枚ダメにしたことがあった。その時も父は、それでも全く怒らずケガをしてないかと気遣ってくれた。私は、子供心に、車をぶつけたとき、どれほど怒られるかと思い、車のキーを玄関から投げ入れ、逃走した。その後、兄貴たちに捜索され、近所の作業所に野良犬のチビ(私は自分で飼っていると思っていた)と暖を取るかのように抱き合って隠れていたところを見つかり、父のところに連れていかれた。

北海道の12月は、その時は雪こそ降ってはいなかったが、長そでのシャツ1枚で逃走したので、両親も心配したようで、寡黙な父も「風邪ひいたらどうする」と一言だけ言われ、車をぶつけたことは一言も言わなかった。数日後、信じられないことに小学校6年生の私に「これだけはちゃんと読め」とくれたのは、交通法規の本であった。おそらく兄貴が免許を取るときに使った、教習所の教本を半ばごみダメのようなところから見つけ出し、私に渡したように記憶している。

なぜ、教本なのか?それは、それまでの無免許がゆえのエピソードが沢山あるからだと思う。冬の凍った川に車で突っ込んだり、近くのダムの放水時間に河原で車がはまり、兄貴にクレーン付きトラックで助けに来てもらったりと、とんでもないことばかりしていた。その兄貴の車も無断で運転して、中学1年生の時に棺桶国道で自己最高の165㎞を記録した。

私は、そうした両親や家族の寛容さというか、放任さというか、そんな中で育ってきたので、今思えば周りの人とは少し違っていたような気がする。しかし、父の言いつけは、「何をやってもいいけど、常に自分で責任を取ることを考えろ」だった。私を信じてくれたのか、興味がなかったのかわからないが、怒られたことは1度もない。周囲の人曰く、私は5人兄姉の末っ子で、すぐ上の兄貴とは9歳も離れており、両親も年を取ってからの子供だったので、一人っ子同然だったので可愛がられたとよく言われた。私は、それをいいことに、違法行為が多くあったように思うが、自分を信じてくれている両親にだけは迷惑をかけてはいけないと、常に心に命じ、用意周到に行動していたが、結果的に多大な迷惑をかけてしまった。しかし、警察沙汰になることは、偶然にも一度もなかった。

このような環境で育った自分は、サラリーマンなんかできるわけがない。とにかく常に自分の考えていることが正しいと思っているし、進むときは、周りを見ずに猪突猛進でがむしゃらに突き進む。自分でもよく18年間もサラリーマンが続けられたと思う。おそらく、周囲の人にとんでもなくご迷惑をおかけしてきたと思う。

大学に入ってからは、まともに大学に行っていたのは1年生の時だけ、2年生からは、試験日とその直前しか学校には行かなかった。相変わらず大の車好きで、大学2年生の時にRX-7を買った。日本車初のあのヘッドライトがリトラクティブになっているのがたまらなかった。当時アルバイトの時給が400円、で中古車だったが新車同様のグレード感で80万円だった。どうやったら買えるのか?そればかり考え、とにかく一日中バイトした。特に夏休みは、朝6時から夜11時半まで、休憩なし、休みなしで働いた。そうしたら、夏が終わったころに、社長が自分だけ特別ボーナスを40万円もくれた。当時の40万円は夢のような金額で、私がバイトしていたのは、昔のパーラーでレストランと喫茶店にケーキ屋さんが併設されたもので、バイトと社員を合わせて、14~15人は常時いたが、40万円のボーナスをもらったのは、社員を含めても私だけだった。その社長は、かの有名な「名古屋帯」の創始者の息子で、莫大な資産家であった。社長の奥様は、私が一生懸命仕事をし、バイトの後輩を頻繁に食事に連れていくことを知ってて、よくバイトの人をまとめてくれるし、当時のバイトは、ほとんど大学生で、試験が近づくと休みが多くなったときも、私は試験日の試験時間以外は、ほとんど店に出ていたので、そのお礼ということで、毎月3万円くらいお小遣いをくれた。そのお金は、すべて後輩の食事代に消えたが、おかげで私の株も上がった。

当時父からの仕送りは、月10万円あったので、バイト代の大半は貯金できた。だから、時給400円でも1年間のバイト代でRX-7が現金で買えたのだ。大学生のくせに、月に25,000円も払うような、貯蓄型の生命保険にも入っていた。自分に何かあったときの両親に対する迷惑料のつもりだった。

私は、頑張れば何でも実現できるかも?ということをこの経験で学んだような気がした。

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