内閣府認可財団法人認定ウエディングプランナー資格検定が出来るまでの30年<3>就職

ブログ

検定が出来るまでの30Vol.3

多分、人生の中で最も楽しいのが大学時代だと思う。子供でもなく社会人としての責任もなく人生の最も華やかで自由な時期だと思う。私は、ほとんど大学には行っていなかったが、一応4年間で卒業できた。実をいうと、4年生の卒業試験で、最低習得単位は大幅に超えて取得できており、経営学部だったので1年生の時は、数学教科が半分近くで、私は、高校が理数科だったので高校の数学よりは数段容易で、数学と英語教科はすべて「優」だったので、15教科履修したが、12教科が「優」で1教科だけ単位を落としたが、この教科は必須教科だったので、なぜか4年生まで取得できず、最後は教務課に拝みこんで論文提出を条件に通してもらった。就職も決まっていたし、1年生の成績だと、授業料免除の条件に該当したほどだったので、教務課に拝みこみこの条件を通してもらったのだ。

こうしたことが、私の人生のなかで時々起こることがあり、いつもスレスレで生きてきたような気がする。

私は、とにかく大学の4年間は大いに働き、大いに遊ぶと決めていたが、それを実行できた満足度は、何にも代えがたいものだった。自分の息子にも同じようなことを言っていたが、息子は、私の血を引いてか、大学時代は私以上にハチャメチャで、時折ぶん殴ろうとしたが、自分の大学時代を含む過去を考えると、握ったこぶしの爪が突き刺さる痛さを感じたほど強い怒りや憤りを感じたが、握ったこぶしを何度となく納めた。こういう場面で、初めて自分の父が私に対してどれほど我慢をしていたか、理解できると父の懐の深さに涙が出るほどだった。父と別れて10数年たつが、父のスピリッツは自分の中にも脈々と生きているようにも感じた。思うに自分の子供は、しょせん自分の分身なんだと認識を新たにした。

大学、4年間も無事終わり、いよいよ人生本番の社会人となることを考えると、物凄く寂しく、できれば、このままいつまでも大学生を続けていたいと思った。社会人になれば、大人としての常識を備えなければならない。もしくは、20歳を超えると法的処分や責任も大きくなる。すなわち自己責任の重さが手かせ足かせとなり、身動きが取れない感じがした。別に積極的に法を犯そうと思っているわけでもないが、放し飼いの生活を続けていると、首輪が邪魔でしょうがない。

でもこれが社会人かと思うと、夢も希望も無くなってしまったような気がした。経済的にも、貧乏のどん底、奈落の底に突き落とされたような気がした。

当然だが、父からの仕送りも無くなり、学生時代のバイトよりも少ない給料しかもらえなかった。今でも覚えているが、なんと手取りで118,000円しかなかった。

こんなでは生活ができない。どうしよう。その時にバイトをしていた会社の社長の奥様にこの惨憺たる状況を話したら、会社の休みの日に会社には内緒で、うちの店でアルバイトをすればいいと助言してくれた。この奥様には、就職祝いにと日本橋三越に一緒に行って、スーツ、ネクタイ、カバン、靴など新入社員とは思えないほどの高級ブランをそろえてもらった。そうした甘えも確かにあったが、生活が苦しくては、どうすることもできない。地方出身者は、家賃が発生するので、それがきつい。奥様は、「谷藤君の空いている時間に、1日何時間でも働いていいから。時給はそうね、特別に1,000円にするわ。」と言ってくださった。私は、涙が出るほどうれしかった。アルバイトの最後は、店長みたいなこともしていたが、時給は480円だった。それを1,000円にしてくれたのだから、感謝しても感謝しきれない。

私が、最初に就職したホテルは、東京駅の丸の内側にあるホテルだったが、ドル箱と言われた八重洲側のアネックスが職場だった。場所がら、土曜日は隔週で休み、日曜・祝日は完全に休みだったので、バイト先の店も土日祝日が忙しいので、好都合だったことは間違えなかった。

月末に店の裏にある自宅に給料を取りに行っていたが、毎月働いた分より少し多く入っていた。この社長は、私を養子にしようと考えていたほどだったので、よく社長のところへは遊びに行っていたし、私が行くと心から歓迎してくれた。私が行くのは、ほとんど店が終わってからなので、だいたい23時過ぎだったが、ガウンを着て社長の寝室で話をするのが定番だった。

こうして、なんとか社会人になっても食いつなぐことはできた。

 

いよいよ就職したホテルの業務がスタートする。非常にありきたりな表現だが期待と不安で一杯だったが、いざ現場に配属されると、期待などみじんもなく、絶望と苦悩の日々が続き、1週間ほどで1日も早く退職したいと思うようになった。

こちらもご覧ください

最近の記事

TOP