母の面影1

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はやいもので、母が亡くなってから2か月が過ぎた。

母は、北海道に180平米以上もある家に一人暮らしをしていた。母が亡くなった連絡を受けた翌日に、私は、仕事で静岡に行く予定があり、その仕事を済ませて北海道の実家に向かった。

広い部屋に、家族に見守られながら安らかに永眠についていた。私は、同行した私の息子と、母のなきがらの隣で寝たが、全く寂しさを感じなかった。そして今も母のことを思い出しても、いい想い出だけが頭をめぐり、悪いこともあったのだろうが、何一つとして思い出すことが出来ない。

人の記憶は本当に都合よく出来ているのだと感心してしまう。多分、神様がいつまでもくよくよしないように人をそのように作ったのかもしれない。しかし、私は、それだけではないような気がする。

私は、この年になってもとても臆病な部分があって、怖い話を聞いたり、テレビで見たりすると、トイレも怖くて行けない。ましてや、身近で誰かが亡くなったとなると全くそうであったが、今は、そういう感覚が全くない。

きっと、母が私のそばを離れずにいてくれているからだと思う。私はこの年齢にしてマザコンと言われようとも、母から受けた真の親子愛がベースで今の自分があり、周囲から見て私が幸せかどうかは別として、自分は、本当に今の自分に満足している。

今思うと、母の涙はいまだかつて見たことがない。私が4歳の頃には、今でもしっかり記憶にあるが、北海道の夏だったが、夜逃げ同然で引っ越した先の家が、寝ていると天井から星が見えたのを覚えている。今にも潰れそうな家の6畳一間に家族7人が暮らしていたのだ。

そんな貧乏になった時も、いつも笑顔を絶やさない母であった。しかし、私が小学生になるころには、近所の魚屋さんや八百屋さんが、頼みもしない大きな魚やたくさんの野菜やフルーツを勝手に持ってきて、玄関にぶら下がっていた通帳に勝手に記入していたのを覚えている。

母は、どんなときも笑顔で、辛い時も辛い顔一つしない母であったが、私がくも膜下出血で倒れ、その後も呼吸困難で気管切開をして声が出なかったので、1ヶ月以上も母に連絡できなかったが、声がやっとかすかに出るようになり、病後初めて電話をしたとき、安どのあまり泣き崩れる母の姿が目の前で見て取れるくらいはっきり感じることが出来た時、自分のことをどれだけ心配してくれていたかよくわかった。

「あんた、母さん、どんだけ心配したか。でも、あんたの声がきけたので、良かった、良かった、本当に良かった。」と震える声で言っていた。私もその母の声に、涙が止まらず嗚咽でしばらく言葉が出なかったのを覚えている。

医者には、出血量からすると即死状態だったと告げられたが、今こうして自分は後遺症こそきついが、生きていられるのは、母の思いと今もそばで仕事をしている人の想いの結果だったと思っている。

今後、母や母の母、すなわち私の祖母のことも綴って行きたいと思うが、非常に奇怪な、ビックリするようなことも多かった。

母の面影と共にこのブログを読んでいただく方のコーヒーブレイク的にご紹介していきたいと思う。

 

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