検定が出来るまでの30年Vol.13 転機 内閣府認可財団法人認定 ウエディングプランナー資格

検定が出来るまでの30Vol.13 転機

内閣府認可財団法人認定 ウエディングプランナー資格

私が、現役のホテルマンの頃は、終身雇用や年功序列という考え方が一般的に脈々と生きていた時代であった。当時から、サービス業は給与が低く、私たちホテルマンは、新しいホテルオープンを待ち、そのホテルからヘッドハントされるのを待って、一移り年収100万円以上のアップを交渉して転職していた。そうすることでしか、年収をアップできなかったのである。

ヘッドハントされなければ、年収アップはそれほど期待できないので、普段からとにかく仕事で実績を上げることを目指し、その機会を待っていたのである。

私も4つのホテルで勤務したが、基本的にヘッドハントという形で転職したので、給料はまあまあ満足していた。しかし、世間体を気にする者にとっては、よく職場を転々とするあまり良いイメージを持たれなかったのも事実である。今どきは、そんなこと当たり前だと思うが、当時はそんなわけにはいかず、夫婦喧嘩の原因になることがあったほどだ。

ホテルといえどもオーナー次第では給料の安い有名大手ホテルもあるが、私もそういうところからのヘッドハントには応じなかった。外資系の屋号をもつ有名高級ホテルですら、私が在職していたホテルよりも、かなり給料が低かった。私は、比較的恵まれていたので、どんなに有名外資ホテルからのヘッドハントでも、年収を下げてまで転職することに価値観を感じることはなかった。

転職時は非常にドラスティックに行動する。まず、退職するXデーを決めて、その丁度1か月前に、有無も言わさず人事課に申し出て、申し出た1か月後に退職する。私が大学を卒業して就職したホテルは、地獄のように厳しかったが、本当に多くのことを学ぶことができた。最初の半年間は、悔しさに毎日のように心が折れそうになり、そして何度となく枕に涙したが、結果的には逆に感謝している。私の反骨精神は、まぎれもなくこのホテルで培われたものであったからだ。

私は、最初のホテルで、ほとんどの営業セクションの経験をして、最後の宿泊部門でくすぶっているときに、ヘッドハントの話がやってきた。銀座6丁目にオープンするホテルの宴会予約の話だ。

私は、躊躇することなく飛びついた。そして、目論見通り受け入れ態勢ができ、あとは現在の勤務先のホテルに退職願いを出すだけとなった。

ところが、以前記したように、このホテルの私の人事は、実質人事部ではなく専務取締役にあった。人事部に退職の話をした翌日早々、専務に呼び出され、専務室に行った。

最初は、仏様のような顔で話していたが、時間とともに険しい表情になり、挙句の果てには、私が転職する先の社長とは非常に懇意なので、私の転職の話を潰すと言い出したのである。専務は私に、この度の転職の話が潰れれば、君は無職となるし、この業界でも再就職は難しくなると脅した。それでも君はこのホテルを退職するのか?と聞かれたので、そうなったとしても、一度決めたことですから退職しますと答えた。確かに、このホテルの社長一家と転職先の社長一家は古くからの業界仲間で、懇意にしているのは知っていた。もし、そのようなことが起こるとすれば、転職先のホテルは、私を受け入れないだろうと踏んでいた。確かに、私が在職していたホテルは、業界では、有名老舗ホテルではあったが、それほど業界に影響力があるとは思えないし、私は、たった3年間経験しただけのホテル小僧だ。

しかし、そこまで言っても私を引き留めようとしてくれた専務の私への想いに、私は感謝してもしきれなかったし、本当に多くのことを学ばせてもらった専務に、いくら感謝してもしきれないのも事実だった。結果、紆余曲折はあったが、予定通り円満退社をすることができた。転職先の条件の一つにも円満退社があった。勤務最終日に専務にアポを取って、お礼をしに行ったが、専務にも快く見送られ退社できた。その後、専務とは、年に1度の業界の集まりでお会いする機会があり、以降、20年間ほどはお会いしていたが、高齢のためか、いつの日かその会には出席しなくなりお会いすることはなくなった。

私は、銀座にオープンしたホテルでオープンスタッフとして約3年間勤務した。おそらく、この3年間は私のホテルマン人生の中で、最も楽しい時期だったと思う。当時の宴会予約の仕事は、婚礼と一般宴会の両方を業務としていた。単純に件数だけで言うと、オープン年度は、婚礼420件、1,100件の宴会のアレンジ・手配の業務を、マネージャーを含む5名の男性プランナーと3名の女性アシスタントでこなした。当時のウエディングプランナーの殆どは男性で、若い女性はウエディングプランナーはいなかった。万一、婚礼で担当させようものなら、すぐに親御様から苦情を受けてしまう。「私たちの息子・娘の大切な婚礼の担当者が若い女性とはどういうことですか」というわけだ。30年前の日本は、そんな状況だったのだ。女性の会社人としての地位確立ができていなかった時代である。女性は、いわゆる「お茶汲み」と言われる程度の仕事だったのだ。

そんな中で、同世代の寄せ集めの人材で、一つのホテルの一部署を築き上げていくには、全員が一丸となるより他に成功する方法はなかったのだ。それも、誰かが強制的にまとめるのではなく、膨大な業務が、自然とその方向へ動かしていくのだ。ブライダルの仕事は、「一生に一度」のキーワードがあり、絶対に失敗できないという意識が強かった。その上、ウエディング業務の守備範囲が広いので、チームで動かなければ、業務が動かなかったのだ。420件の婚礼と1,100件の宴会のオペレーションをこの人数で行うのは至難の業だ。システマティックな業務フローとプロの意識と技がなければできなかったと思う。

こんな状況でも、毎日が楽しく会社に行くのが楽しみだった。一人が困っていると、手の空いている者が手伝い皆で片付けてしまう。一人でも仕事が遅れて帰れないと、皆でサポートして片付け、できるだけ早く全員で退社する。みんな年齢が若いので給料も安く当然小遣いも少ない。銀座という立地にも関わらず、週に4回はみんなで仕事帰りに集っていた。

そんな楽しい毎日が続いていたとき、私は、どうしても片付けなくてはならない婚礼・宴会システムのメンテナンスのために、一人事務所で仕事をしていた。

そこへ、部門長がやってきて、「谷藤、ちょっといいか」というので、「はい」と言って、一方的な話を聞いた。一字一句を覚えてはいないが、言葉少なに「ホテルの再建のような仕事で、新しいホテルに移るから準備しておくように。給料は確実に上げる。この話、超極秘だからな。」とこの程度の一方的な話で、私は瞬時に「はい、かしこまりました。」と答えた。私たちの時代は、完全な縦社会だったので、あくまで信頼する上司に対してだが、答えは「YES」しかなかったのだ。

私が、多くの転職を経験してきたが、転職時は非常にドラスティックに行動する。まず、退職するXデーを決めて、その丁度1か月前に、有無も言わさず人事課に申し出て、申し出た1か月後に退職する。現場が忙しい時期とか人の手配がつかないとか、担当婚礼が沢山あるなどの状況は一切無視して、一方的に退職日を1か月後に限定して辞める。次に、公休を計算すると、どんな場合でもほぼ2週間はある。従って、退職申し出日から、2週間は出勤するが、それ以降は、転職先にアルバイトで勤務し、その2週間後に転職先で正社員となるのがパターンであった。

それくらい、ドラスティックに行動しないと、かえっていろいろな人たちに迷惑をかけてしまう結果になるからだ。

しかし、稀に会社側が、応じてくれないというか、営業が滞ってしまうような場合もあるが、その際は転職先の出勤日の前日まで、働くこともあった。これは、お世話になった会社に対する、せめてもの罪滅ぼしだ。当時は、転職と言っても、チームで動くことも多かったので、転職規模は、10名規模になることもあったので、その場合は当然業務は滞ってしまう。

こうしたプロセスを通して、次に転職した会社で、7年半。その次の会社では、4年半勤務して、ホテル業界を引退した。

 

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