内閣府認可財団法人認定ウエディングプランナー資格検定が出来るまでの30年<10>最後のFB

検定が出来るまでの30年Vol.10  最後のFB

私は、最初のホテルで約3年間過ごしたが、希望もある程度叶えてもらい、最初の1年間は宴会場で過ごすことができた。

ホテルの宴会場のサービスでは、社員は新入社員の教育をせず、配膳会の常備がその教育を行うケースが多かった。ホテルではどこでもそうだった。私は、今でも確信的に思っているが、ホテルのサービスの基本は、FBのサービスにあると思っている。それも、レストランサービスだ。私は、最終的には宴会の道を選択したのは、宴会のダイナミックさや大宴会を成し遂げたときの達成感は、何にも代えがたい満足感があったからだ。私は、過去に、大小7つのホテルや式場のオープンや再建に携わってきた。またホテル引退後は、コンサルタントとして世界第4位といわれた金融グループの依頼で始めたブライダル部門のコンサルティングでは、全国十数社のホテルを中心としたブライダルのコンサルティングを行ったが、どの仕事も楽しいのだが、やはり特にホテルのオープンは、鳥肌が立つほど興奮するのだ。古き良き時代のホテルのオープンは、まったくもって別格のやりがいのある仕事だ。オープンや再建を全うするには、相当な精神力と体力が必要となる。なにより自分や他社のすべてに妥協を許さない精神は、時に人生を捨てたくなるほどのストレスを伴う。いうなれば、自分以外は全員敵だと思わなければできないこともある。

そんな精神力を身につけられたのも、最初のホテルだと思う。今でも鮮明に覚えているが、最初のホテルの最初の半年間は、自分の人格などありえないと思うほど過酷な毎日で、自分という人格を全否定された思いで過ごした。来る日も来る日も思ったことは、今日こそ上司をぶん殴って辞めようと思っていた。精神的だけではなく、肉体的にも相当厳しかった。場所柄、日曜日は休み、土曜日は隔週で休み、夏休みも1週間ほど取れたが、休みの日は、決まって学生時代にお世話になった飲食店でバイトをしないと生活が厳しかったので、朝から晩まで働いた。

そんな時だった、今は定年で本社の渉外部長をされているが、大手ホテルグループの総支配人だった先輩に一言の苦言を呈せられた。私が、心身ともに疲れ切って、仕事に覇気がなかった時に「谷藤さぁ、お前が心身ともに厳しいのは分かるけど、お前が辛いときは、周りの人も辛いんだよ。」という一言だった。この言葉が、私の人生を変えたと言っても過言ではない。決して大袈裟なことではないのだ。

30年以上たった今も鮮明に記憶している。私は5年以上前にくも膜下出血で九死に一生を得たが、その後遺症がいまだに厳しく、そんな私を気遣ってか、お忙しい立場なのに、つい先日も私の品川の事務所を訪問してくれた。私は、涙が出るほど嬉しく、また、こういう方々にサポートされてきたことを実感し、心から感謝している。

さて、宴会場の次は、レストランだ。レストランは、最初のころからお手伝いをしていたので、よく理解できているし、ここのレストランでは生涯学ぶことができないであろうことまでしっかりと学ぶことができた。多分自分のホテルマン人生の基盤がこのホテルでできたと思う。

FB関係では、宴会、レストランの次は、ラウンジだった。ラウンジは客単価も安いしお茶やコーヒー、ケーキなどの提供だけだし、技術もさほど必要としないので正直つまらないと思っていた。しかし、お客様からお金をもらうということは、大変なことで、セクションによって、それぞれの役割のようなものがあり、その役割を果たすためには、それなりの技術というものが必要であることを気づかされた。

ラウンジは、ホテルの中でも最も利用しやすい価格帯の店舗だと思う。それがゆえに、多くの人が訪れる。その時の印象が、実はホテル全体の売り上げに影響するということだ。

単価が安いからとそれなりになどと考えることは、ホテル経営において足をすくわれることがあり得る。商品単価が安くても、セレブの人も利用する。低料金でもサービスが良いと、ヴァリューが上がり、ホテル全体が好印象となり、売り上げに大きく反映してくるのだ。

私は、さほど技術のいらないラウンジだからこそ、その運営の難しさを実感した。

その後、バーテンダーも行い、シェイカーやステアグラスでカクテルを作るなど、主にカクテルの勉強をした。バーは、昔ながらの徒弟制度のような趣があるので、物を短期間で覚えるということには、教える側も抵抗があったようだが、何とか3か月間でクリアできた。

料飲関係が一通り終わり、今度はいよいよ宿泊部門への移動となり、自分では最も興味を持てない部門だったので、若干の不安があったのは事実であった。

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